
Wreaths placed by teachers, students and staff of Rajshahi University at a memorial south of the central library yesterday, way before the scheduled inauguration in March next year on being built at a cost of Tk 61 lakh in memory of the country’s martyred intellectuals, especially three from the university (from left) — Habibur Rahman, Mir Abdul Quayum and Sukharanjan Somaddar. Photo: star
ラジシャヒ(Rajshahi)市に住むチャンパ・ソマッダールさん(70歳)は、45年が過ぎた今も、夫がなぜ殺されたのかを考えている。 スカランジャン・ソマッダールさんはラジシャヒ大学でサンスクリット語を教え、歌手としても有名だった。彼は独立戦争が勃発したときも武器は持たず、妻や3人の子どもと一緒に暮らしていた。自分はただの一市民でしかないと考えていたのだ。だが自分の立場を忘れていたのかもしれない。 「あの人がどうして殺されたのか、今でもわかりません」 チャンパさんは特派員に語る。 スカランジャンさんの生活にはヒンドゥー教徒であるが故の危険が伴っていた。パキスタン軍の協力者がそうとは知らずに玄関先に来ていた。チャンパさんは1971年の恐怖を思い返す。 「始め、パキスタンからの侵略者たちにとってヒンドゥー教徒は第一の標的でした」 4月13日午後、パキスタンの占領軍はラジシャヒ大学のキャンパスに侵入した。多くの教師はキャンパスを離れたが、スカランジャンさんを含む少数の教師はそのまま留まった。 キャンパスの通りをうろつく軍のジープが夜の静寂を破り、銃撃音は家のすぐそばで発砲したかのような大音量だったとチャンパさんは話す。 「私たちは眠れぬ夜を過ごしました」
深夜、一人のベンガル人兵士が窓の向こうに現れた。彼は銃傷を負っていた。スカランジャンさんは彼に水を与え、傷には布を巻いた。兵士は夜明け前に去っていった。 「この事は、バングラデシュが独立するまで秘密にしていました」 1971年4月14日午前9時30分、ブロック69ビルの付近にパキスタン軍用車が停車した。前日、モティウル・ラーマン氏を含むベンガル人ではない数名がこの場所で野営をしていた。この地区はソマッダール一家が暮らしていたブロック71の真正面だった。 パキスタン兵は彼らと握手した後、例の負傷兵を探してソマッダール一家が暮らすビルを襲撃した。5人の兵士がソマッダール家の住居を捜索したが収穫はなく、兵士たちは車に戻った。その時モティウル氏が兵士たちを呼び戻し、スカランジャンさんを指差して"彼はヒンドゥー教徒です"と告げた。パキスタン兵たちは住居に戻って連行した。その後、スカランジャンさんの姿を見ることはなかった。 心理学科長(当時)のモティウル氏と地理教師のアーメド・ムハンマド・パテル氏は、スカランジャンさんを車で連行したパキスタン軍に同行した。 「私は泣きながら(ブロック69の)ビハリ家に駆けこみました。彼らは、モティウルとパテルがついているから大丈夫だと私に言いました」 その晩、パテル氏はチャンパさんに対し、スカランジャンさんはゲストハウスでモティウル氏やサイエド・サッジャード・ホサイン副学長(当時)と一緒なので、何も心配はいらないと伝えた。 夫に関してそれ以上は聞かされなかった。 スカランジャンさんが連行されたその日の午後、カジュラ(Kajla)地区の沼付近で射殺されたことを知ったのは、バングラデシュ独立後だった。その翌日、地元の人々が彼を埋葬した。だが1972年2月25日、ラジシャヒ大学当局は彼をキャンパスの中央図書館前に埋葬し直した。 「あの人には殺される理由がありませんでした。ですが、モティウルがあの人をヒンドゥー教徒と呼んだのを聞きました」 チャンパさんは涙ぐみながら話す。 スカランジャンさんの遺体が戻ってきたのはスマッダール家にとって幸運だった。4月13日、自宅にバングラデシュの独立旗を掲げたことで連行された数学教師のハビブール・ラーマンさんは消息を絶ったままだ。 同じくラジシャヒ大学の知識人で犠牲となったミール・アブドゥル・カユムさんの家族は、モティウル氏が彼の殺害に一枚噛んでいたと考えている。 カユムさんの家族によれば、モティウル、パテル両氏はパキスタンに向かったという。 バングラデシュ/The Daily Star Dec 15 2016 http://www.thedailystar.net/city/45yrs-searching-answer-1330132 翻訳:長谷川 #バングラデシュ #ニュース #独立戦争